後冠の時代

コロナウイルスの電顕写真をみると、表面が突起で覆われていることがわかる。この突起の様子が、王冠や太陽の光冠のようだから「Corona」という名が付いた。スペインには「コロナビール」があり、国内(特に名古屋市近辺)には映画館やボウリング場、パチンコ店を展開する「コロナワールド」がある。いずれも、その名前から忌み嫌われてしまっているが、名前に罪があるはずはない。これだけの災害を引き起こした新型コロナウイルスは、スペイン風邪やペストのように、時代を画すことになるだろう。コロナ(冠)を区切りにするのだから「前冠」「後冠」か。

後冠の世界がどうなるか。しばらく考える。まずは、アイテム並べ。

朝昼晩と、暇つぶしのためだけに放送されているワイドショーは、本当にいらないと気づいてしまった。お笑い芸人たちがタレントと名乗って「庶民目線」からニュースを伝えるというのは、庶民はバカばかりという意味なのか。多くの人が仕事をしている時間帯、家にいる人たち、いまは子供たちも、こんな番組を見せられてしまっている。なんの有意義な知識も与えない。芸能人、政治家の揚げ足をとって、知ったような顔で皮肉を言い続けるしか能がない。社会の害悪だ。ワイドショーのような時間つぶしをするなら、放送を休止する方がいい。

「出張」は、もういらない。Web会議で済むことしかなかった。いつもの自分のデスクで、必要な情報を参照しながらの打ち合わせが、最も効率的だと気づいてしまった。人と実際に会うことに、往復数時間かけるほどの価値はなかった。酒を飲みながらホンネを、なんて、前時代的談合・秘密漏洩主義でしかない。そんな場で共有した情報は、最後まで日の目を見ず、活用されることもない。

SNSとテレビで、我々は一人で何かを考えることを忘れてしまった。多人数の知から生まれる「集団知」というのもあるはずだが、それぞれの「知」が失われてしまえば、集まるのは「集団感情」でしかない。「バズった」というのは、その典型だ。何人かの「知」がその核にあったとしても、その「知」を受け入れるかどうかは多分に感情的である。せめて「等身大の知」を個々人が有する努力をしなければ、この世はヒステリックな熱狂に支配されることになるだろう。わからないことは、まず自分で考えよう。他人に聞くのはその後だ。